限りなく庶民に優しいサワー発祥の地「ばん」。 今宵、入りづらい古典酒場へ!第3夜
富士吉田名物のうどん屋さんの中には、丸っきり古民家に見える店も少なくない。それも田舎独特の大きな日本家屋で、だだっ広い玄関とたくさんの部屋がある。ただ何となく、普通のおウチではないことが伺われるのは、玄関に脱がれている膨大な靴の量だけだ。
でも、まだ「何かお祝い事か、もしくは法事かもしれない」と思っていると、パンパンのおなかを擦りながら満足げな笑顔でたくさんの人たちが出てくる…。
最初に中目黒の「ばん」に行った時の思い出は、ほぼ吉田うどんと重なっている。
目黒川のほど近く、都心にまだこんな大きな民家が残ってるんだ?と思いながら中に入ると、折り重なるように人が入っていて一心不乱にジョッキの飲み物をお代わりしていた。
「あれは何?」、一緒に行った画家でDJの遠藤氏に聞くと、即座に「サワー」という答えが帰って来た。
「ばん」、「藤八」、「忠弥」、「さつまや」、その夏、目黒川周辺でたくさん巡り会うことになったサワー系の飲み物との最初の出会いだった。
東京に出て来て初めて飲んだ酒場は、阿佐ヶ谷か、西荻窪、どちらにしても中央線の居酒屋だった。ビールの大瓶を飲んでいると、即座に隣りの先輩から声が掛かった。
「いい若いもんが、そんな生意気なもんを呑んじゃダメだ、高いし、酔わないし、贅沢だろ」。
そう語る先輩の手元を見ると受け皿付きの厚手のコップに並々と注がれた透明の液体があった。コップの縁に口をつけ、少しだけ飲むと、先輩は醤油の空き瓶に入れられたオレンジ色の液体を注いでいる。
「焼酎だけだとキツいから、こうやってちょっと、甘い梅エキスで調節するんだ」。
玄界灘に面した九州の北、博多と唐津の間を転々として育った僕には、丸っきり未知の光景だった。
一般的には全員が焼酎を愛飲していると思われがちな九州だが、それは南の方の話。北では、焼酎より日本酒、豚骨ラーメンよりうどん。やわやわうどんの代表格として全国区になった「牧のうどん」も、博多と唐津を結ぶローカル線の町で生まれている。
「昔はね、家庭の奥さんなんかもさ、焼酎買いに行けなんて言うとサ、やっぱり抵抗感あったネ。酒屋から出る時、ご近所さんに見つかったら『やだわー、あそこの奥さん、焼酎買ったの!』なんて言われちゃうから」。
今の店主(小杉)潔さんの兄、初代の正さんから聞いた話が忘れられない。それはそのまま、幼い頃の田舎の風景だったからだ。
一体いつから、焼酎はメジャーになったんだろう?その謎を探る物語は、そのまま「ばん」という古典酒場の物語だ。
東京がロンドンを抜いて、世界一の人口を誇る都市になった昭和32年、中目黒で「ばん」は生まれた。東横線の駅からも近く、春にはさくらの名所になる目黒川のすぐそばで、繁華街の目黒銀座からも近い好立地だ。
「もはや戦後ではない」という有名な経済白書から2年。5000円札や100円硬貨が発行され、翌年には東京タワーも完工される。スポーツ界では、長嶋茂雄がデビュー、東京は高度成長期へ向かってひたすら駆け続けていた。
父親の生家を建て直して、最初は細々と始まった「ばん」は、当初、上階はアパートとして貸し出していたという。
ところが、懐を気にせず旨いもつ焼きが食べられる店が中目黒にあるという噂は東京中を駆け、日に日に客が増えて行く。
初代の正さんは、それに合わせて貸していた部屋を引き払い、改築を繰り返しながらどんどん店を広げて行った。
1階が満員で初めて2階に通された日、我が目を疑った。そこは、どう見ても旅館の大広間、まるで宴会場だった。
「当時、2階の座敷は24畳あったから60人以上は入ったかな。下のテーブルが30人、それにカウンターなんかを足すと109席あった。それが毎日、満員で、しかも1日に何回転もしてた」。
初代より13歳年下の潔さんは、どんどん大きくなって行く「ばん」を見つめながら育った。
今でも1本100円均一のもつ焼きは、タン、ハツ、レバ、なんやわ(軟骨の柔らかい所)、オッパイ、しろ、テッポー(直腸)、こぶくろ(子宮)、ワッパ(膣)、ガツ、つくね(鳥ミンチ)、豚軟骨つくねという驚愕のバラエティだ。
カシラに関しては、赤身、フランス、あぶらと、脂の量によって3種の串に刺し分けている。
それだけの種類を用意するのは、毎日通ってくるお客さんたちが飽きないための配慮だ。サイドメニューも、レバカツやとんび豆腐などたくさんの人気メニューがある。しかし、「ばん」を不動の酒場にしたのは「サワーの発明」という偉業に所以している。
「ばん」が開店した頃、甲類焼酎の飲み方はストレート一辺倒だった(ちなみに芋焼酎を中心とした乙類の高級焼酎ブームは、ずっと後世の出来事)。
無味無臭の甲類焼酎に、香りを付け、味をマイルドにするため、「天羽の梅」製の梅や葡萄のシロップを入れて飲む梅割りや葡萄割りだ(立石『宇ち多゛』や吉祥寺『いせや』、新宿思い出横丁『カブト』は今もこのスタイル)。
天かすでたぬきが天ぷらそばの味わいを手に入れたように、焼酎は梅と葡萄のエキスで、庶民には高嶺の花だったウィスキーやワインに変容した。
その後、ウィスキーのハイボールに倣って、炭酸で割る飲み方があちこちの酒場で同時に自然発生する。
「当時はね、炭酸で割るから『炭酎(たんちゅう)』とか、ひっくり返して『酎炭(ちゅうたん)』とか言ってたっけね。でも、兄貴は語呂が悪いってんで、当時ジンを炭酸で割ったらジンサワーって言ってたから、酎サワーって言ってもおかしくない。でも、それじゃカッコ悪いんで、酎をカットして『サワー』で売り始めたんです」。
潔さんが当時を回想してくれた、何と「サワー」のネーミング自体も「ばん」初代店主である正さんの発明だったのだ。
サワーの快進撃は、まだまだ止まらない。当時、高度成長期に差し掛かっていた東京の市場では、カリフォルニア産の輸入レモンが安価で出回るようになって来た。試しにレモンでサワーを割ったら、とんでもなく美味しくて飲み易かった。
瞬く間に、正さん考案の元祖レモンサワーは店の看板となり、地元ばかりか東京中から客が押し寄せる超有名店に成長する。
「とにかく、出る炭酸の量が半端じゃない。当時、1ケース24本入りの炭酸を、1日に15ケース(360本)は売ってた。1本で2杯取れるから、毎日700杯以上サワーが出る計算だね」。
最初は、酒屋から焼酎(金宮)込みで買っていた大量の炭酸。ある日、瓶の住所を確かめるとと、近所の目黒本町だった。だったら、酒屋を通さず、直で会社に注文しようと言うことになる。「飲むならハイサワー♫」で、後に一世を風靡する博水社と「ばん」の運命の出会いだ。
「当時、博水社が酒店に卸す炭酸の総量よりも、「ばん」1店舗の方が多い。不思議に思った社長が見学に来たんです。『一体、この店で何が起こってるんだろう?』って…」。
活気溢れる店の中で、社長は2つ割りにされた大量のレモンに、目が釘付けになった。炭酸にレモンと何かひと味を加えたら、お酒が苦手でも飲みやすい、マイルドな味の割り材ができないだろうか?
それはラムネ屋さんに始まり、自らが下戸だった社長だからこそのアイデアだった。社長は更なるヒットを祈願して、名前に「ハイ」を付け足した。ハイは同時に、社長自身を指す吾輩の「ハイ」もダブルミーニングされていた。
国民の酒、レモンサワーの誕生だ。
発祥地「ばん」で飲む、元祖サワー。博水社の「ハイサワー」で家庭でも楽しめるようになった進化型サワー。その勢いは東京中の酒場に浸透し、いつしかレモンサワーは、ビールを目指したもう1つの焼酎カクテル「ホッピー」と共に関東中を席巻する。
しかし、ラストワルツは唐突に訪れた。レモンサワーを世に送り、47年間中目黒のランドマークだったばんに終末の時がやって来る、再開発地上げだ。
跡地には45階建てのビルが建つと言う。そこに出店する権利はあったが、「もつ焼き屋がビルの中じゃ面白くない」と正さんは閉店を決意。
最後の5年間は弟の潔さんも加わり、伝説の店の幕引きに華を添えた。
日に日に高まって行く客たちのリクエストに迎えられて、「ばん」が復活したのは翌年の3月1日。店主は弟の潔さん、場所は隣りの祐天寺。駅からやや離れているが、伝説の古典酒場が再び往時の賑わいを取り戻すためには、さほどの時間はかからなかった。程なくして、隣りの物件が空き、店を拡張。その後、さらに1軒隣りの物件が空き、複数客専門の2号店も開店した。ばんの第2章は、眩しい未来に繋がっている。
「お客さんが得した気分になって貰えば、それが一番いい。お客さんの懐を傷ませないで、いい気持ちで飲んで貰いたい。ひと月に10日飲むものをさ、ばんだったら15日飲んでもらえる」。
初代正さんから、二代目潔さんに引き継がれたばんの哲学は、そのまま古典酒場の鑑だ。
暖簾を潜る時、とんでもない決意が必要な古典酒場は、その懐に飛び込んでしまえば限りなく優しく、いつか常連になりたいと思う場所ばかりだ。だから、勇気を出して新しい世界へ踏み出そう。もちろん、最上級の敬意と自尊心だけは決して忘れないように。レモンと炭酸、金宮だけ、「ばん」の元祖サワーから、パラダイスの入口を覗いてみよう。